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抜錨

抜錨
 物語が人を動かすことがあることを、すっかり忘れてしまっていた。

 猛然とノートに字を書きなぐる私を見て、父は何を言うでもなかった。四半世紀生きたいい歳の子供に、「そんな無駄なことはやめなさい」と言うまでもないと思ったのかもしれないし、そもそも「古い」子供など彼の眼中にないのかもしれない。新しい子を身ごもっているハナさんは私の丸めた背を興味深そうにのぞき込んだり、お茶菓子のさしいれをくれたりした。
「何を書いてるの、夢子さん」
 私は黙って首を横に振った。ハナさんはつまらなそうに家事に戻っていく。父は居間でバラエティを見ていて、私は小説を書いている。

 小説って言ったって簡単な話だ。失敗した女が地べたを這いずりながら、それでも存在価値を探し続けて、自分だけの道を見付ける。ありふれた型をなぞった、どこにでもある三文小説。自分の姿を重ねなかったと言えばうそになる。だけど、書かずにおれないという気持ちが私の中に確かにあって――お金がないからナポリタンを食べていたあの日の私には無かった、炎があって。

 父に「無駄」と言われるかもしれないという考えは常に頭の中にある。私は失敗した。失敗したからここに居るのに、さらにわけのわからない道に突っ走ろうとしている。ハローワークにも行かないし家事をするでもない、ノートに字ばかり書いている。

 本当は、私、理系が良かったんだよねパパ。本当は就職に失敗しないような娘が良かったよねパパ。こんな無駄なことに時間を費やすより、愛嬌あって、笑顔が素敵で、仕事もできそうな女の子に育ってほしかったよねパパ。
 ごめんね。ごめんねパパ――って。

「うるっせえな」

 呟く私は泣いている。もはや泣きながら書いている。心の中でえんえん泣きじゃくっている小さな私を黙らせ、手が痛くなるまで書く。
 私には私の泳ぎ方があるんだ。
 どこからともなく塩素の香りがする。幼い私はプールにいて、父の背に乗って底を泳いでいる。思い立って父の背から手を離し、自分の手のひらを目いっぱい開いて、そこにあるものをみる。指。五本の指。水かき。爪……。




「読んでみてください」

 私は父にノート数冊分の小説を差し出す。清書も推敲もしていない。書きなぐった字のまま、ありのままだ。父の目を見つめる。

「これがいまの私です」
「小説なんて読んで、書いて、どうなる。お前はこれからどうしたいんだ」
 痛い質問だ。でもここで退けない。
「読んでみてください。お願いします」
「いやだ」

 父は私のノートを押しのけた。ハナさんが私たちを見比べて、はらはらしているのがわかった。

「くだらない。何も得られない。時間の無駄だ」
「でもパパ――」
「読まない」

 父はもう、私の目を見なかった。会話が終わった合図だった。私はノートを手早く回収すると、裸足のまま玄関から飛び出した。夢子さん、というハナさんの言葉が追いかけてきたけど、私は止まれなかった。
 走って走って走って、走り続けて、否定されたそれを海にでも投げてしまおうかなと思って、海まで走って、ノートを思いっきり振り上げて、でもできなくて、へたり込んだ。
 全部終わりにしちゃおうかな、と思ったあの日が私の耳もとに押し寄せてくる。ざざんざざんという海鳴りを伴って。迎えに来てくれた父。店で一番安いナポリタン。はきはきした若い女の店員さん。ハナさん。つたない「銀河鉄道の夜」の朗読。

 手のひらを見る。五本の指。小さな水かき。手入れを怠っている爪と……ペンのインクが擦れて、真っ黒になっている手の腹。泳ぎ方なんかとっくの昔に忘れてしまった。海にざぶんと飛び込んでも溺れるだけかもしれない。私はノートを抱きしめる。
 これしかないのは、もうわかっていた。私はもう父のようには泳げない。


 私はハローワークに通い始めた。同時に、ノートに書いた文章をスマホで改稿し、ネットに移す作業も並行した。そして何か月かかけてハローワークでようやく良さげな求人を見付けたあたりで、私はあるメールを受け取ることになる。とある名のある出版社からだった。
 私はこのことをハナさんにだけ教えた。ハナさんは自分のことのように喜んでくれた。父に教えようと提案するハナさんを何とか止めて、私は静かにことをすすめた。昼はパートに出て、とにかくお金を貯める。そして夜は、編集者さんとの打ち合わせに費やす。
 そして私は、新居への引っ越しと初めての出版をほぼ同時にやってのけた。ここまでに、二年かかった。

 父はこのことを知らない。私のペンネームも知らないし、私が本を出したことも知らない。ハナさんが幼い男の子に読んで聞かせているその物語が、私の書いた小説だってことを知らない。本屋に平積みされている本が、私のものだってことを知らない。私の部屋は今はハナさんの本棚になって、漫画や本のぎっしり詰まったカラーボックスが置かれているという。

 そこに「私」がいる。きっと私が明日突然死んでしまっても。

 


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