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抜錨

前夜
 それが「銀河鉄道の夜」だと分かったのはひとえに私がそれを大学で勉強して卒論まで書いたからであったのだけど――思ってもみない邂逅に目が開く。私はそっとはだしで衣服を避けながら扉をほそく開けて耳を澄ませた。ちょうどジョバンニが汽車に乗り込むところで、彼女は朗読をやめた。
 彼女の朗読は毎日決まった時間に行われた。午後二時から十分間、あの日本語にしては異国の言葉みたいなふしぎな文字列を、彼女はたどたどしく読み上げた。決してお世辞にも上手な朗読ではなかったのだけれど、文字のひとつひとつにかじりつくみたいな切実さがそこにあったから、「へたくそ」と笑うことはできなかった。

 ある日、思い立ってハナさんに聞いてみる。「なんで、読んでるの」
 彼女は完璧な微笑を浮かべる。気味が悪いほど完璧な微笑だ。就職していたころ、鏡の中で何回も練習した私のへたくそな愛想笑いが思い出される。私は少し、意味もなく落ち込む。
「胎教にいいっていうから」
「こどもに聞かせてるの」
「そうだよ。……ねえ、私、朗読へたくそなの。夢子さんが読んでみてくれる?」
 なんで私が、と思ったけれど、完璧な微笑がそれを許してくれない。ようするに私は押しに弱いのだ。
 ハナさんは私の了承を満足げにきいて、ささやかな下腹のふくらみを撫でた。
「夢子さんは頭がいいからねえ」

 奇妙な時間が始まる。父がつくった女と父が作った子供のために、大学時代くるったように読んでいた「銀河鉄道の夜」を。本当に変な時間だった。誰のために、なんのために読んでいるのか分からなかった。ハナさんの腹の子供のためなのか。ハナさんの満足のためなのか。それとも、研究の果てについになにも掴めなかった私自身を慰めるために読んでいるのか。感傷を完全に排した淡白な描写は私を泣かせない。けれどハナさんは泣いた。カムパネルラの死に泣いた。

「上手だね、夢子さん」
「ううん」
 薄い化粧が、涙で落ちてる。私はそれを間近で見ながら、ふとこの人は「母」なんだと思う。未然の母。彼女はその細いお腹いっぱいに子供を育てて、その子を産むのだ。それは私の父の子で、それは……私の弟か妹だ。
「ねえハナさん」
 私は初めて、彼女の名前を呼んだ。
「私、邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ」
 ハナさんは微笑む。完璧すぎるから、私にはそれが嘘かほんとか見分けがつかない。
「でも、朗読上手だね。本当によかったよ。泣いちゃった」

 それを聞いた私は、
漠然と、
小説を書こう、
とびきりの。
 と思った。




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