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ヤマタノオロチ、姉川に現る

ヤマタノオロチ、姉川に現る
第1話 金ヶ崎撤退戦、開幕

 時は戦国時代、元亀元年(西暦にして1570年)
 金ヶ崎姉川の地にて、織田と徳川の軍勢は挟撃の窮地にあっていた。
 織田と同盟関係にあったはずの浅井家が突如裏切り、背後から襲いかかってきたのだ。
 浅井家が裏切った理由、それは詳しく知られていない。信長も家康も、彼らがここで裏切るとは思っていなかったから、その理由を想像できなかったことだろう。




「皆の者、血気にはやるな!」

――徳川本陣の、緊迫した空気。

「退却が第一だ! 我ら全員で京に帰ることだけを考えよ!」 

 理由のわからない裏切りに憤る家臣たちを必死で鎮める家康。

「殿! しんがりは俺に任されよ!!」

 だが、その制止を聞かずに……いや、誰よりも深く家康の考えを理解しているからこそ、開口一番に名乗り出た男がいた。

「た、忠勝!?」
「ただいま前線では羽柴殿が包囲されている! 俺が敵をひきつけ救援にまわる! その間に京へ戻られよ」

――そう、この男こそが、のちに『家康に過ぎたるもの』と呼ばれた家臣『本多忠勝』である。





「蜻蛉切よ、うなれ!!」

 しんがりとしての役目を背負ったこの男は、相棒である豪槍『蜻蛉切』を携え、敵陣へ突進する。
 
 のちに『徳川四天王』と呼ばれる武将の中でも、彼は特に武勇に優れた存在なのだ。

「いけぇ!!」

 怒号と共に突撃する忠勝。兵達は徳川最強武将の戦いに鼓舞されて次々と続く。
 浅井・朝倉双方がその武勇を恐れた。故に、まともにぶつかるつもりは無かった。それは当然の判断と言えよう。
 忠勝は徳川の宝。こんなところで殺られるわけにはいかなかったのだ。

「ぬぅん!!」

 いくら兵を率いようが、所詮は雑魚。簡単に圧倒できる敵陣を突き進みながら槍を振るい、押し寄せる兵を薙ぎ払ってゆく忠勝。

「く、できれば戦いたくはないが……」

 彼と対峙した総大将、浅井長政も開口一番にそう呟いた。忠勝を避けて信長と家康を討つことを目論んでいたのだろうが、想像以上の強さで本陣近辺まで肉薄してきたことは完全に想定外だったようだ。

――だが、その時だった。




「伝令! 長政様、緊急事態です!」

 忠勝と長政、両雄が槍を構え一騎打ちに臨もうとしたその時だった。

「……どうした!?」

 伝令兵の驚愕した表情に、忠勝も異変を感じ取った――まるで金ヶ崎一帯を、殺気が覆ったかのような。

「姉川上流から、謎の巨体接近! こちらに向かっております!」
「……なんだと?」

 戦う意思を半ば無くしたかのような浅井軍には目もくれず、忠勝は姉川上流の方向に目を向けた。

「……むう!?」

――そこにいたのは、忠勝ほどの勇猛な武将ですら目を見張るほどの存在。
 巨大な蛇が、八匹束なったかのようなもの。身体は毒々しい色合いで、赤い皮膚に青い筋が入り乱れており、とても不気味であった。

「あ、あれは……!?」

 忠勝は、即座に思い出した――古の書物に描かれた、巨大な蛇神の名を。

「に、逃げろー!!」

 敵も味方もなく、主君を置いて逃げ出す両軍の足軽達。

「…………」

 長政は、完全に血の気が引けた顔をしていた。突如現れた厄災、ヤマタノオロチの姿に、彼も恐れていた。

「長政様、あなたもお逃げください! もはや戦どころではありません!!」

 側近の武将たちの無数の進言。だが、長政は逃げようとはしなかった。

「まだだ……ここで逃げるわけにはいかん!」

 そして、震える手で采配を振りかざす。

「私が囮になる! 全軍、撤退せよ!」
「いけません!」

 家臣の一人、赤尾清綱が声を荒らげた。

「ここで長政様だけを残してお逃げになれば、それこそ士気が崩壊します! この清綱、お供致します故どうか……!」
「ならぬ! それに……死ぬことは怖くない!!」

 長政は声を震わせた。かつてない恐怖に怯えながら――彼は、必死にそれを隠そうとした。

「……私は、死ぬことよりも、あのヤマタノオロチが、市に牙をむくことの方が恐ろしいっ!」
「……殿!?」

 ここで家臣たちは、ようやく長政の真意を知った。彼は家臣と妻子を守るために自分一人だけで戦う気なのだと。

「お、お待ちください! それは我らも共に!」
「ならん!! 貴様らは全員逃げろ!!」

長政は涙を流しながら叫んだ。

「ここは……浅井家の行く末を左右する岐路なのだ!」

その一言で、家臣達は何も言えなくなってしまった。自分達にできるのは、この場で長政を見届けることのみだと悟ったからだ。

「……決して振り返らず、退却せよ」

涙を堪えながら、長政は震える手で采配を強く振りかざした。

(すまない……市……)

 そして彼は、泣きながら妻のことを思っていた。泣きながら、心中でひたすら詫び続けた。
 彼女の兄である信長の敵になったことよりも、このオロチから彼女を守り切れる自信がない自分の弱さに対して、彼はひたすら詫び続けた。

「……貴殿の願いは、よくわかった」

 だが去り行く家臣たちと違い、一人だけ長政と共に残った者がいた。

「この本多平八郎忠勝、貴殿の思いとこの国の未来を守るために、あのオロチと共に戦おう」

 忠勝だった。彼は、ヤマタノオロチに対し槍を構える。
 すると長政は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま振り返り、忠勝に問う。

「なぜ逃げない、なぜ奴を、恐れない」

 その問いに対して忠勝は、彼にしては非常に珍しい笑みを浮かべながら答えた。

「俺も貴殿が家臣を守ると決心したのと同様に、殿をお守りせねばならない。そのためなら、この忠勝、死をも恐れぬ」

 蜻蛉切を構え、彼はオロチに切りかかった。まるで、未来をも切り裂くような一閃だった。
 死の運命を切り裂こうとする忠勝と、自らの死という宿命すら乗り越えようとする長政の思いが重なり――ヤマタノオロチの首が一つ、宙に舞った。
 同時に、もう一匹の首が逃げる浅井軍の足軽達に狙いを定め、襲いかかる。
 しかしその時だった。忠勝が咄嗟に飛び上がり、蛇神の尾を踏み台にして跳躍し、二匹目の首を刎ね落とす。
 手傷を負ったオロチは、首を一つ失って不利を悟ったか、そのまま川の中に潜って去っていった。

「……奴め、逃げたか」
「だが、追い返すことはできたようだな」

 長政と忠勝は、共に一息ついた。そして同時に顔を見合わせると、苦笑いを浮かべた。

「まったく……実に情けない男だな、私は。家臣を先に逃した挙句、最後は敵であったそなたに助けられるとは」

 そう――この男、本多忠勝は、徳川のみならず、日本という国の未来を守った宝であったのだ。








※おことわり

本作に登場する浅井長政は、先日更新した「浅井長政の結婚記念日」に登場する彼とは別世界の長政という設定です。

最新話です



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