トリスト共和国は、南北に広がった国土を持つ島国。この世界の北半球の北部に位置するこの国の冬は寒い。冬でもなお灌木の生い茂る美しい国でもある。
その南端に位置する軍港に、今日任務から帰投した軍船が接岸しているところであった。
これまで幾度も外洋にてトリストの平和を守るために戦ってきた船。見上げるアネットが所属するアイアンクロスよりもはるかに歴史の長い、共和国海軍最強部隊である第1艦隊竜騎士団、それの活動拠点となる船。
かつて彼女が異国の地にて保護され、トリストに連れてこられた時に乗った輸送艦よりもはるかに巨大で、船体には大型の窓が複数つけられている。
「あら、ピッケンハーゲン少尉。実物は初めて見たかしら?」
同伴している顧問錬金術師、ブリューゲル博士。兵器開発のためにアイアンクロスにいる彼女は、当然他の部隊の装備も資料で把握している。その中でもこのウロボロス級竜騎士空母に関しては、直々に視察に赴くよう辞令を下されたことがあった。
――だが、アネットは博士が推測する通り、ウロボロス級竜騎士空母とは初対面である。
その最中、アネットが窓の一つを指した。
――その瞬間、そこから飛竜が飛び出した。いや、飛び出したのは竜だけではない。甲冑姿の騎士も一人、背中に乗っている。
黒い甲冑の竜騎士が、彼女らの前に降りた。兜の顔を開けたそこには、壮年でありながら若々しい姿の赤髪の男性の顔であった。
「貴公達が、イーダが寄越した開発主任と訓練教官か?」
――そう、この男こそが、第1艦隊提督であるミハイル准将である。
「あ、アネット! アネット・ピッケンハーゲン少尉ですッ!!」
その勇ましい姿に、いつもよりも緊張した表情でアネットが答えた。
「ジークリンデ・ブリューゲルです。よろしくお願いします」
怪訝そうな表情のまま、背を向けるミハイル准将。それは無言で、己の駆る飛竜に乗れと言っていた。
ジークリンデが迷わず後ろに乗る中、アネットは緊張したままであった。
彼女が飛竜の鞍にまたがった途端、彼は一気に飛び上がった。
――そして彼女達は、そのままウロボロス級空母の中へ連れ込まれたのであった。
「ほ、本日より! 第1艦隊にっ配属っ! 配属されましたっ!!」
完全にあがり症な話し方になっているアネット。無理もない。自分より階級も年齢も上の軍人ばかりが彼女を出迎えたからだ。
「あ、アネット! アネット・ピッケンハーゲン少尉ですッ!! よ、よろしくお願いします!!」
アイアンクロス大隊の中では、黒い鎧の名で味方からも恐れられる有数の剣士の一人である彼女も、別の部隊に配属され任務に就くのは初めて。そこにいるのは完全に緊張しきった年齢相応の少女であった。
ミハイルは冷たい口調で彼女を侮っていた。
その冷静な分析に、集まった士官達は一斉に笑い出す。
――だがそれを即座に諫めたのは、他ならぬミハイル准将であった。
「たとえ階級も年齢も下だとしても、新型の扱いは我々海軍よりはるかに精通している」
「たとえ子供が相手としても、教えを乞うのにふさわしい態度で訓練に望め!」
トライデントの柄を叩きつけて警告する准将の姿に、兵士達は一転して緊張感を取り戻す。
侮るような言葉を口にしながらも、ミハイルはアネットのことを配属元から預かった大事な人員として認めている。
そのため、部下には礼節を持って接するよう檄を飛ばしたのだ。
配属一日目は、艦内で歓迎の食事会が開かれた。第1艦隊は来客が来た際に、カレーを作ってもてなすという伝統があるからだ。
やってきたカレーを目にして、アネットは先程までの緊張には見合わない幼稚な歓声を上げ始める。
ブリューゲル博士が止めようとした時には、既に手遅れだった。そう、アネットはテーブルマナーが汚いのだ。
元気よくがつがつと、カレーをはじめとした料理の皿に手をつけようとするその彼女の食べ方に、同席する士官や兵士達が次々と手にフォークを落とす。
ブリューゲル博士ですらも啞然とする有様だったのだから。
アネットの行動のあまりの幼稚さに、ミハイルが席を立とうとした。だが――それは一瞬で止まった。
その意地汚く食事に貪りつく彼女に、一人の女性士官が近づいたのだ。
「あら、メ……じゃなくて、ピッケンハーゲン少尉。今の行動はどういう意味でしょうか?」
海軍所属のリディア中尉である。それに即座に気づいたアネットがむぐむぐとカレーを食べながら応対する。
「何を言っているかわかりみゃせん――ゴクン! ……食べてます」
その質問にそもそも応えられていない時点で察するべきだった。完全に話を聞いていなかったからだ。
再びズッコケそうになる周囲だったが、ミハイルは違う意味で彼女を見据えていた。
「――アイアンクロスのメスオオカミは、食器の使い方も知らないのですか」
突如、リディアの表情が豹変する。挑発的な態度をとったのであった。
――アイアンクロス大隊最強剣士の名も伊達ではないアネットであっても、彼女は軍の外での生活の場を知らない。
「――共和国陸軍最強の兵士の一人と知られた黒い鎧が、こんな気品のない野良犬だったとは」
リディアのその言葉は、会場全体を緊張させるのに十分であった。
ゴクリ……と、アネットは物も言わずに立ち上がると――
「あたしは確かに、ご飯食べるの上手じゃないよ。少佐にも博士にも怒られてばかりだったから。でも、私の仲間は違う」
リディアの顔が、苛立ちに歪む。
「少佐は……アイアンクロスのみんなは、野犬なんかじゃない!」
鋼鉄の少佐も。共に歩んだ彼らも。絶対に野犬ではない。彼女はそう確信していた。
「言っておきますが、貴女は今日から第1艦隊所属でもあるのですのよ。前の部隊と私達の船のルールは違います」
「……だからどうしたの? そんなの当たり前のことでしょ」
あっけらかんと答えたアネットに、リディアの眉がピクリと動く。
「……っ! だったらこれからは、アイアンクロスの、シェーンハイト少佐に迷惑のかからないような佇まいで過ごしなさい」
リディアはそのまま踵を返し、アネットの元から去ったのであった。
アネットは、無言で再びカレーを食べていた。