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猫と兎

25 いつか
 僕たちはレストランを出て、港の側の大きな公園に向かう。そこを半周ほどすれば、駅の近くにたどり着く。
 二月に入り、雪のちらつく日も出てきたが、今日は比較的暖かい。海風も穏やかで、少し歩けば、外の寒さも気にならなくなる。陽奈の歩調も軽やかで、ブーツの踵がリズム良く石畳を打つ。

「こうして再会できたのって、思えば波流ちゃんのお陰だね」
「そうだな。ああして呼び出されなかったら、陽奈には一生会えなかったよ」
「来年は、志貴くんも同窓会に来てよ。サッカー部の子たちが、寂しがってたよ」
「あいつらにも、悪いことしたな……行ってみるか」

 ふいに、高校時代の記憶が、ポップコーンが弾けるかのように次々とよみがえってくる。
 入部してすぐに、部室で女の子のランク付けを始めて、陽奈が堂々の一位になったこと。修学旅行の夜、同室の男共に、二人はどこまで進んだんだと散々囃し立てられたこと。
 あいつらも、今はどうしているんだろう。
 何も言わずに、連絡を絶ってしまったことは後ろめたいけれど、皆大人になったのだから、笑って受け入れてくれるような気はする。

「そうだ、志貴くんに、お願いがあるの」
「お願い?」
「わたし、夕美に会いたいの」

 僕は思わず、足を止めてしまう。陽奈は小首を傾げ、頬を掻く。話の流れでいうと、夕美の名が出てくるのはそうおかしなことではないのだが、すっかり油断していた。
 夕美に関して、陽奈は色々と喋りたいことがあるのだろう。僕はベンチを探し、そこでじっくり話そうと促す。

「夕美も、陽奈とは連絡を断ったんだよな」
「うん。最後に会ったのは卒業式。一緒に帰って二人でお茶しようと思ってたんだけど、写真撮ったりしてたら見失っちゃって……それっきり」

 僕はそっと、口元を手で隠す。陽奈と夕美を引き裂いたのは僕なんだと、言ってしまいそうになるから。
 僕が、間違いを犯さなければ。そもそも、僕なんかが陽奈と付き合わなければ。女の子二人の友情は、今でもしっかりと続いていたかもしれないのだ。

「波流ちゃんからね、夕美があの辺のバーに来ることがあるって聞いたんだけど、志貴くんも一回会ったんだよね?携帯の番号とか知らない?」

 陽奈は縋るように僕の瞳を射すが、首を振ることしかできない。

「僕も夕美に、連絡先を聞こうとしたんだけれど、断られたよ」
「そっか。波流ちゃんは、すっかり酒の似合うすれた女の子になってた、なんて言ってたけど、志貴くんはどう思った?」
「確かに、やさぐれた感はあったな。彼氏が何人かいるみたいだし」

 僕は夕美の言葉を思い出す。本当に会う必要性があるときは、ちゃんと会えるものだ、と。
 その言葉は、あながち間違いじゃないと僕は考える。今の僕と陽奈だって、まさしくそうだったのだから。

「わたし、夕美ともちゃんと話をしたい。謝りたいことも、あるし」

 陽奈が、夕美に謝ることとは何だろう。僕は押し黙ったまま、次の台詞を待つ。

「志貴くんの受験勉強が始まってからね、嫉妬してたんだ。わたしが彼女なのに、なんで夕美の方が志貴くんと一緒にいるの、志貴くんを助けてあげられるの、って。当たり前のことなのにね」

 僕は足元の芝生を見つめながら、控えめに相槌を打つ。

「夕美だって、自分の勉強で大変なのに、しょっちゅう電話したりして。志貴くんが冷たい、なんて馬鹿みたいな愚痴ばっかり言って。それでも夕美は、わたしの話を聞いてくれたんだ」

 陽奈の声色は至って明るい。辛いことを話すときは、いつもそうだ。

「それに、たくさんアドバイスもしてくれた。全部、わたしのことを考えて言ってくれてたのに、何回か反発しちゃった。その一つが、志貴くんの将来を縛るな、ってこと」
「……どういうこと?」
「せっかく成績が上がったのに、わたしと一緒の大学に進んだら、志貴くんがもったいないって。彼氏の将来を考えるなら、一歩引くのも彼女の役目だって。後になって考えたら、その通りだったって思うんだけど」

 ふうっ、と息を吐き、陽奈は続ける。

「そのとき夕美に色々、酷いこと言っちゃったの。彼氏ができたことないくせに、偉そうなこと言わないでとか。夕美に志貴くんの何がわかるの、とか。夕美は志貴くんのことが好きだから、そんなこと言うんだ、とか」

 本当に子供だったよね、と陽奈は笑う。僕はというと、とても笑えない。
 話すべきなのか?あの時の過ちを。僕は夕美と浮気したんだって、ちゃんと謝るべきなのか?
 でも、タイミングが悪い、何もこんな時にしなくても、とか。知らない方が、陽奈にとっては幸せなんじゃないか、とか。いくつもの言い訳が浮かんでは消え、僕は口をつぐむ。

「夕美はほんとに、すごい子だよ。言いすぎたのはわたしの方なのに、余計なこと言ってゴメンって言ってた。大学で色んな人と話すようになってから、わたしの方が間違えてるって気づいた」

 陽奈の声が、震えはじめる。

「あんな風に、厳しいことを言ってくれる女友達なんて、そうそう居ないもんだね。みんな、心地いいことしか言わないの。婚約したときだって、同じ会社の女の子たちからは一切反対されなかった。彼がクズ男だって、わたし以外はみんな、知ってたのにね。本当のこと、言ってくれなかった」

 消え入りそうなか細い声で、陽奈は吐き出す。

「夕美に、会いたいよぉ……」

 僕は陽奈の肩を叩く。子供にするように、優しく、何度も。
 陽奈の嗚咽が漏れる。
 それが終わるまで、僕は肩を叩き続ける。
 大きな風が吹いて、常緑樹の葉を揺らす。

「もし、夕美に会えたら、伝えておくよ。陽奈が会いたがってる、謝りたいことがあるみたいだって。僕も、夕美とはちゃんと話がしたい。だから、探すよ」

 陽奈はコートの袖で目頭を押さえ、鼻をすする。

「ありがとう、志貴くん」

 僕たちは再び歩き出す。駅の改札へ向けて。先ほどよりも、多少ゆったりとした歩みで。
 明日の予定を聞かれて、僕はありもしない友人との予定を言う。なぜそんな無意味な嘘を吐いたのかは、よくわからない。
 転勤のことは、まだ言わないことにする。内示が出て、場所が確定してからでいいだろう。そして、引っ越し代が必要なことに気付いて、口座の残高を思い出す。今夜の食事代だが、サービス料や消費税が頭になくて、予想よりも高くついてしまったのだ。
 まあ、何とか格好がつけれたから、良しとしよう。

「じゃあ、またね」
「うん、またな」

 そんなあっさりとした言葉で、僕たちは別れる。
 次の約束なんて、もちろんしていない。
 けれど、僕と陽奈は知っている。
 その「また」が、いつかきっと、訪れることを。
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