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猫と兎

18 過ち
 全ての試験の合格発表が終わり、それを報告するためだけに、僕は学校へ行った。三年生の授業はもう終わっていて、実質的には春休み状態。次に全員で顔を合わせるのは、卒業式の予行演習だけとなっていた。
 落ちこぼれ気味だった僕が、緑南大学に受かったことに、教師たちは驚いていた。担任のことはあまり好きではなかったが、何の混じり気もない笑顔でよく頑張ったと褒められたので、悪い気はしなかった。

 けれど、僕はまだ迷っていた。

 陽奈と同じ、栄北大学に行くべきか。
 それより偏差値の高い、緑南大学にするべきか。
 両親は当然、緑南にしろと言ってきた。栄北に行く理由が、陽奈以外になかったからだ。緑南の方が授業料が安いとか、家から近いとか、そういったこともあった。真っ当な意見だと思った。

 僕はサッカー部に顔を出し、後輩たちに合格したことを告げた。お前らもちゃんと勉強しろよ、と先輩風を吹かせ、少しだけ彼らの練習を見守った。どちらの大学に行くにしろ、このグラウンドとはもうすぐお別れだ。そう考えると、柄にもなく感傷的になって、僕は校舎に戻った。
 あの、空き教室へと。

「なんだ、志貴か」

 そこには、窓辺にもたれかかる、ジャージを羽織った女子生徒が居た。彼女はいつものように、気怠そうな顔で音楽を聴いていた。無人の空間を想定していた僕は、うろたえつつも彼女に報告をした。

「合格したよ。どっちも」
「そうか、良かったな」
「夕美こそ、おめでとう」
「当然の結果」

 そう言って強気に笑った後、夕美は椅子に座った。そこは彼女の指定席だった。僕はその後ろの席に腰掛けた。もう、この教室に用は無いはずなのに、なぜ彼女はここに居たのだろうか。そう聞こうとしたが、彼女の方が先に口を開いた。

「この教室とも、もうすぐお別れだな」

 夕美は机に刻まれた傷をなぞった。そういえば、彼女がこの机にコーヒーをこぼして、二人でギャーギャー騒いでいたことがあったな、とそのとき僕は思い出していた。
 来年になれば、またこの教室に、受験生たちがやってくるのだろう。そうして、月日は巡り、僕たちは大人になっていく。それぞれ別な未来を、生きていく。

「寂しいの?」

 夕美はきっと、正直な答えを言わないとわかっていて、そんなことを聞いた。

「別に」

 想像通りの返答すぎて、僕はプッと吹きだした。

「……何だよ」
「べ、別にっ」

 笑い転げる僕を、夕美は呆れた目つきで睨んでいた。僕はそれすら、心地よかった。
 西日が、射しこんでいた。

「なあ、志貴。ゲームをしないか?」

 突然、夕美がそう言った。

「ゲーム?」
「うん。志貴が勝ったら、いいものやるよ」
「なんだそれ」

 夕美は机の上に、三本のペンを等間隔で置いた。

「それじゃあ、目を瞑って」
「おう」

 どうせ、順番を入れ替えるから元通りにしろとか、そういったものだろう。僕はペンの位置を忘れないよう、脳裏に描いた。右から、赤のボールペン、シャープペン、青のボールペン。
 ところが、いつまで経っても夕美がペンを動かす気配はなかった。運動部の連中が、片づけを始めたのだろう、ゴールポストを引きずる音が響いていた。焦れた僕が、まぶたを開けてしまいそうになった、そのときだった。

 風が動き、唇に、夕美の感触が触れた。

「はは、騙されてやんのー」
「ちょ……夕美っ!?」

 目の前には、歯を見せて笑う、夕美の悪戯っぽい顔があった。
 それはとても、見慣れたもので。僕がよく、知っているもので。
 何の違和感もない。僕の、彼女の、親友の顔だった。

「志貴はそういう、素直すぎるところを改めた方がいいんじゃないか?」
「はあ!?」

 夕美があまりにも平然としていたので、動揺する方がおかしいのか、という錯覚に陥った。そして、僕が何も言えないでいる内に、彼女は手早くペンを片づけ、勢いをつけて立ち上がった。

「さ、帰るか」

 さすがの僕も、ここで身体が動いた。

「いや、待てって」

 夕美の右腕を掴み、表情を見ようとした。彼女はパッと顔を伏せたが、唇が微かに震えていた。
 僕は、夕美と過ごしたわずかな日々を思い返していた。この空き教室で、帰り道で、喫茶店で。彼女とどんな言葉を交わした?彼女はどんな態度をしていた?
 夕美は、僕のことが、好きだったのか?

「ちゃんと、話せよ。その、どうして、キス、したのか……」

 夕美は下を向いたまま、答えた。

「したかったから、した」

 駄々をこねる子供の様な、稚拙な物の言い方だった。僕は敢えて、声を荒げた。そうするべきだと思ったのだ。

「夕美!」
「志貴はバカだな。でも、あたしの方が、もっとバカだ」

 夕美は顔を上げて、僕の瞳を、優しく射抜いた。

「あたしは、まだ、この続きがしたい」

 ブレザーのポケットに入れていた携帯電話が震えた。陽奈だ、と思った。自動車学校が終わって、連絡してくる頃だった。僕はそれを、確認しなかった。
 目の前にいる女の子を、僕は乱暴に、抱きしめた。
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