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壁になりたい人

壁になりたい人
 わたしたちの手からジグソーパズルのピースがひとつなくなった。彼はそれだけでパズルそのものを捨ててしまった。街にエネルギッシュな緑が多くなった、夏の景色が始まっている春の終わり。梅雨の入り口。紫陽花の色が移り変わってゆく彼の心を表しているような季節のことだ。
 彼がわたしの知らない女子と下校していく姿を見たとき、どうしてたった一ピースを探してくれようとしてくれなったのか、思い出という二人で組み上げてきたパズルを、たったひとつの紛失で投げうってしまうのか、わたしはとても悲しくなった。
 昨日の夕方前のわたしの部屋でおきた、終末を思い出す。まだ心の準備ができていないわたしがいけなかったのだろか。彼の腕を掴む力に怖くなってしまい、つい拒んでしまった。夜中でないと聞こえることのない、目覚まし時計の針の音が聞こえてくるような、静寂に満たされた瞬間だった。彼は本当に僅かな瞬間であったが、表情が怒りを出していた。きっとそれまではわたしに気を使って、あるいは、わたしとそういうことになるまでは出すつもりのない素顔だったのだろう。わたしは情けなくめくれているスカートを直すと、彼に「ごめんね」と言った。針の音がまた沈黙の中で聞こえてきた。彼はわたしの言葉に直接答えることはなく、黙ってわたしの部屋を出ていった。すべてが揃っていないパズルのピースには用がないと言いたそうな顔をしていた。

 昔の彼を振り返った。わたしを裸にして壁に押しつけるのが好きな人だった。それ以上の行為はない。ただ、わたしを壁に馴染ませるように貼り付ける。それを満たすことが出来るのはわたししかいないと言っていた。昔の彼には壁にうつ伏せ貼りつたわたしの背中や尻が魅力的だったのだろうか。その行為を毎日するたびにわたしの視界と気持ちは暗く、それでいながら落ち着いたものになる。昔の彼がわたしを壁に貼りつける情熱と、わたしの被支配欲が粘着剤となって、わたしは一枚の壁と同化する。やせ細った身体に備わったささやかな乳房が潰されて隙間なく貼られていく。正面を向いていると完璧な接着が出来ないので横を見ることになる。壁側に押しつぶされた頬と口あたりが歪む様をみて、昔の彼は心が張り裂けそうになった表情を見せて謝罪をする。「ごめんね。本当にごめんね。こんな素晴らしく美しい顔を歪めてしまって」と言う。どこまで本性かどこまでは真実かはどうでもよかった。大切なのは、わたしは壁になりなかったし、昔の彼はそれを実現してくれる最適な人物であったということだ。
 これがわたしであり、パズルのピースを全てを集めて出来上がる作品なのだ。それを彼は、小さなことで見る機会を失ってしまった。わたしが普通に恋愛をしてしまったからいけなかった。大事な想い出を共有しようと、パズルのピースの管理を怠ってしまったのだ。

 わたしは失恋をした。部屋には誰も居ない。スカートやスリップを脱ぎ、パンティまでを部屋の隅に投げ捨てて裸になる。これで本当に自分一人になった。わたしは壁の擦りながら昔の彼を思い出す。押し付けてくれる人を懐かしみながら、そっと壁へ身体ごとキスをする。ひんやりとした壁紙の感触。髪の毛と陰謀が擦れジリッと音を立てる。ささやかな鼓動が壁を介して聞こえてきた。わたしはその音を聞いて心が安らいだ。きっと、彼はいなくなって正解だったのだろう。もし彼とあれ以上の事になったとしたら、彼はわたしを壁に押し付けて、わたしという本体のパズルを完成させなければいけない。
 彼にはきっとそんなことはできないだろう。だからわたしはひとりで自分を完成させる。それが何を意味するであるのかもわからずに、そっと頬をつけ、腕を貼り合わせていく。安心という興奮が、わたしの胸の中をスーと沁み込んで支配していった。







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