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春に沈む

春に沈む
 冬の寒さを越えたいという一縷の望みを陽の光に求めてしまうような三月初めの朝。あたしの中でそっと冬眠していた想いがまた目覚めてしまった。ベッドにはあたしから零れ落ちた惰眠の欠片が涙となって散らばっていて、カーテンを閉めずに寝てしまった窓には、澄んだ明かりが部屋に向かって膨らんでいる。抑えきれないこの想いのようにふっくらとして、白くて、それでいて無邪気なヤツだ。
 壁にかかった制服を見る。どこにでもあるようなブレザー。華やかさも上品さもない、高校生の女というだけの記号でしかないスカート。誰に誇るために着るわけでもない、集団という衣装。 
 いつもは机に伏せてある写真立てを抱いて寝ていた。誰にも知られたく想いの写った中身。あたしは去年の秋に想いを諦めて冬を越したけれど、この写真だけは捨てられずに、惨めにも写真立ての中で辛く甘い気持ちを生かしてきた。スマホにすらない情報をあたしは写真に残したのだ。木を隠すなら森の中。人を隠すなら――。

 着替えを済ませて一階へ降りる。何気ない平和な食卓があって、優しい母がいて、頼りがいのある父がいて、そして、どこにでもいる平凡な――弟がいる。あたしの口が間違った動きさえしなければ、この家庭には平和な春が訪れる。母は大事に育てている花々を楽しむことができるし、父は希望に満ちた家庭と家族を維持できる。あたしと弟は誰もが迎えるような普通で少しだけドキドキする新学期に出会う。どこからも破滅の手が忍び寄る余地のない春が訪れる。どこかで桜が咲いて、桜餅やら柏餅やらを弟と取り合いながら呑気に食べる春がやって来るのだ。
 世界を破壊するボタンをあたしだけが持っている春の始まり。どんな気持ちで、生まれてくる未来という、新しいものを見つめていけばいいのだろう。新鮮で眩しくて、希望にあふれる風景をあたしは壊したくない。そう、壊したくないのだ。

 弟が先に家を出ていこうとする。相変わらず朝に弱い弟と朝に強い寝ぐせ。あたしは背伸びして寝ぐせ直しスプレーをかけた。弟は面倒くさそうな顔をしながら黙って立っている。無色透明なスプレー液が霧となり家に入る光と埃に混ざってふんわりと舞っている。――背だけはあっさりあたしを超えてちゃって。あたしはスプレーを連射して、自分たちをびしゃびしゃにした。「姉ちゃん、やりすぎ」という弟の声。変声期を過ぎた、動物が唸るような声だ。わたしは弟の喉ぼとけを見ると、立派な突起物が弟の首の中から生えている。そっとさわってみたい気持ちを抑える。――あなたは誰のために大人になるの? そんなことを聞いてみたくなるような成長をしている弟。背はどんどんと伸びて、いかり肩はよりいかつくなり、胸板は厚くなっていく。あたしの中の弟はいつでも勝手に遠くに行ってしまう。

 弟の背中を見送る。眠そうにフラフラと前に進む弟を見て思う。もしかしたら弟には好きな女の子がいるかもしれない。あるいは、弟のことを好きな女の子がいるかもしれない。心配になって、やがて嫉妬になって、あたしは弟の背中に目線で「バカ」と描いてやる。眩い気持ちが自分の傍に渦巻いているなんて知る由もない弟が見えなくなると、あたしの胸は張り裂けそうになる。この身を貫く氷の刃が、春になれば溶けてなくなってくれるのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい想像をしながら自分も家を出る。――大丈夫。この家を出れば大丈夫。日常というどうしようもない常識があたしを守ってくれる――。友人がいて、クラスメイトがいて、好きでも嫌いでもない先生がいて、嫌な先輩がいて、良い後輩がいて、そして、あたしに少し気がありそうな隣のクラスの男子がいて。あたしの日常はどこにでもいる普通の人たちに囲まれている。あたしには、異世界に飛び込みたいような退屈さも、動画やマンガに逃げこみたいような厳しいリアルもないのだ。あるのは――。

 隣のクラスの男子にその気を見せれば、あたしはあたしの春を手に入れられる。どこにでもありそうで、それでいながら特別な、恋の春ってヤツだ。もしそうなったら、あたしは彼氏を欲しがっている友人に少しだけ優越感を出して、その男子を紹介するはずだ。友人は羨ましそうに、そして、ちょっと悔しそうな表情をしてあたしに、「彼のどこが良いの?」なんて聞いてくる。わたしは少しだけ考えるフリをして、その男子が「オイッ」とツッコむの待つ。そんなわざとらしいコントを見せられた友人は、手をヒラヒラさせながらあきれ顔で、「あっちでやってろ」と言う。あたしが「ごめんね」なんて言って、その男子の背中を押して教室を出ようとする。そんな青春という極めて短い春を謳歌できるのだ。そんなチャンスが教室の壁一枚向こうに転がっている。――あたしよ。すべてが終わるスイッチを押す前に、自分の、自分だけの春を手に入れるんだ。三学期はあと数えるほど。世界の崩壊はカウントダウンを始めているぞ――。それでもあたしは、自分の教室から出て、羽を広げようとしている三月の棲む家へと向かってしまう。

 家に帰り、机の引き出しの中にしまっておいた写真立てを取り出す。写真を見る度に想いが強くなるのに、そこに写し出されているあたしたちはどんどんと過去の人になっていく。あたしはそれを胸に抱き、深呼吸を繰り返す。その呼吸のひとつひとつが時間を無駄に使っていることを知っていながらも、蠢く気持ちを抑えようとする。勝手に芽生えてくる春を闇の向こうに押し込もうと、必死に深呼吸をする。
 弟が帰る前に決着をつけたい。この春は存在してはいけない。あたしの胸の中にだけで生まれては、死んでいかなければならない春なのだ。三月は延々に三月のままで、一秒たりとも前へ進んではいけない。
 写真を見る。まだ可愛らしかった頃のはにかんだ弟がいる。その横にいるのは、この春を永遠のものにした気でいる無邪気なあたし。――バカだなあたしは。このままずっと、春に沈んで喜んでいるがいい。喜んでいるが、いいのだ。

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